文化・芸術

2008年2月23日 (土)

世界一美しい旋律のアヴェ・マリア

 2007年12月のフィギュアスケート日本選手権の女子エキシビションで素晴らしい曲に出会った。それはショパンの作品10-3 ホ長調(別れの曲)を歌曲にしたものだ。知らない人はいないと思われるほどの名曲だが、ソプラノで聞いたのは初めてだった。

 演技者は浅田真央さん。ほんのさわりだけの演技だったので、流れた曲もさわりだけ。そこはかとない哀感を漂わせつつ感情の高まりが表現されていて、心に焼き付いて離れなかった。どうしても聞き込みたかったので、ネットで検索したところ、歌っていたのはレスリー・ギャレット(Lesley Garrett)というイギリスのソプラノ歌手だった。曲名は「So Deep Is The Night」という題名になっていた。レーベルはEMIだ。
 早速HMV経由で届いた3枚組アルバム「Lesley Garrett Platinum Collection 」を聴いたところ、驚くべきことがわかった。最初はまったくの欠陥商品かと思ったほどだ。まずdisc2の16曲目「So Deep Is The Night」を選択して再生しようとしてみたのだが、16曲目が表示されない。これはいったい何ごとかと思い、3枚をとっかえひっかえ16曲目を探し、やっとdisc3になって、あの旋律が流れてきた。

 パソコンで表示させて全容が判明した。ことは単純だった。単純だが考えられない商品だということがわかった。
 つまり、「ディスクのラベルと中身が食い違っていた」ということだ。
 念のため書いておくと、
disc1は実際の中身はdisc3
disc2は実際の中身はdisc1
disc3は実際の中身はdisc2
なのだった。
 こんなことってあるのだろうか?それとも3枚組みにしては破格の安さからすると、海賊版なのだろうか?だが、HMV経由で買っているのだからそんなことはあり得ないとも思う。
 欠陥商品かも知れないが、中身は問題なし。マグロの缶詰かと思って開けたらカツオだったという感じだろうか。実際聴くときには相当ややっこしい。

 肝心の音楽だが、購入して心からよかったと思っている。まずレスリー・ギャレットの歌声がいい。透明感のある声は発生される直前の無というようなものを強く感じさせ、今いる空間を全く別の空間に変えてしまう力を持っている。
 曲も何曲かは自分の中で相当上のランクに入るものがあった。中でもトルガ・カシフ作曲の「アヴェ・マリア」は特筆したい曲だ。disc2と3両方に入っているが、3の方は合唱付きといった感じの相当ドラマチックな編曲になっている。アヴェ・マリアには名曲が多く、3大アヴェ・マリアという分類もあるようだが、このアヴェ・マリアはたぶん世界で最も美しい旋律を持つアヴェ・マリアだと言えると思う。疑わしく思われる方は是非一度聴いてみられるといい。聴いたが最後、その旋律は耳から離れなくなってしまう魔力のようなものを持っている。作曲者Tolga Kashifはトルコ生まれの指揮者兼作曲家だ。レスリー・ギャレットの英国王立音楽院での後輩に当たるらしい。2002年発表のクイーンシンフォニーという曲でイギリスクラシック賞?を取っている。
 この「Lesley Garrett Platinum Collection 」は、他にも名曲を取りそろえた実にお買い得なアルバムだ。

 また、「浅田舞&真央 スケーティング・ミュージック」も「So Deep Is The Night」をはじめ「幻想即興曲」など浅田真央選手の使用曲を納めた、魅力的なアルバムとしてお勧めしたい。

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2007年10月10日 (水)

ラトビアのコクル

 民放があんまり面白くない番組ばかりだったので、BSを出してみた。すると「こだわりライフ ヨーロッパ「伝統楽器に魅せられて~ラトビア~」」という番組で、ラトビアの民族楽器、コクルの製作職人イマンツ・ローベジュニェクスさんという方を取り上げていた。途中から見たので詳しくは語れないが、ラトビアでは人間国宝的な職人であるらしい。ソビエト時代に楽器製作工場で働いていたが、当時はすべて国の管理下に置かれての仕事のため、自分で作りたい楽器は作れなかった。しかし、職人魂に駆り立てられ、演奏家から頼まれたコクルを内緒で作っては、塀を挟んでこっそり楽器を受け渡していたという。ソ連が崩壊してラトビアが独立してからは、誰はばかることなくコクル作りに打ち込むことができるようになり、今は第一人者として、祖国の伝統楽器の維持、発展に貢献している。
 私はコクルという楽器の存在をこの番組で初めて知った。水平に置いて演奏するハープのような弦楽器である。番組の中で、集団で演奏する場面があった。民族衣装を身につけた2・30人の女性たちが演奏しながら歌っていた。それも、何人かは歌いながら何かを手のひらでたたきながらリズムを取っている。それがどうもコクルをたたいているように見える。とにかく演奏が始まってまもなく、私の中で何ともしれない、何か民族の血が沸き立つような、ぞくぞくするような感覚が呼び起こされてきた。おまえはラトビア人かと言われそうだが、まあ、それほど感動的な演奏だったということだ。どこか、カルミナ・ブラーナを思い出させる曲調だ。楽器としてはコクルのみと言っていいはずだが、柔らかさの中に何とも言えない迫力がみなぎっている。
 それでなんとしてもこの演奏が聴きたいと思い、検索してみたが、コクルの知名度が低すぎるのか、ほとんど出てこない。CDなど考えられないという現状だった。こうなるといても立ってもいられない。今後是非あのラトビアの女性チームのコクル演奏をCD化して欲しいと願っている。もし同じ感想をお持ちの方がおられたら、声を上げて欲しいと思う。

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2007年10月 2日 (火)

天野尚写真展に思う(三)

 さて、写真展『「佐渡」海底から原始の森へ』だが、恥ずかしながら、この写真展で初めて天野さんが実はプロの自然写真家だということを知った。天野さんの風変わりな経歴はおぼろげながら知っていたが、あくまでもアクアリウムが専門だと思っていた。ネイチャーアクアリウムの写真集は持っていたので、写真も玄人はだしだなとは思っていたが、ここまでの方とは思いもよらなかった。
 会場で私が一番目を奪われたのは、佐渡に存在する原生林の巨木を写したものだった。それはいくつかの展示スペースの最奥に展示されていた。いや、展示されていたというより、まさにそこにその巨木は存在していた。場内の明るくない照明が、そのまま一続きに太陽の光も遮られている佐渡の原生林の只中へ招き入れてくれた。そこには屋久杉の存在感にも引けを取らない重厚さが漂っていた。
 佐渡にこのような巨木の原生林が存在するとは思いもよらなかった。ここは研究対象として新潟大学によって管理されており、普通は立ち入ることが許されていない場所だそうだ。だからこそ手つかずの原生林としてそのまま残っていたのだ。佐渡は海だけではないということを気づかせてもらえた写真だった。
 もちろん、海の写真も圧巻である。海中の写真もよかったが、厳冬期の外海府を写した写真は、素晴らしかった。高く白波の立つ海面に剣山のような岩々が突き出ている。それは今まさに海中から出現してきたかと思わせるような異様な生気を放っている。海は荒々しく波立ちながら、青く透明感をたたえ、そこには冬の厳しさと同時に、水の持つ柔らかな深みがとらえられていた。
 これらの写真から感じるのは、天野さんの持つとてつもないエネルギッシュな行動力だ。のどかな風景写真もあるが、過酷な自然が見せる美しさをとらえた写真は、相当な危険を冒しながら収めたものだ。会場には撮影の様子を写したパネルも併せて展示されていた。そこには古武士の面影を宿す天野さんが、若いスタッフを引き連れて奮闘されている様子がまざまざと映し出されていた。雪で立ち往生したオフロード車を手で押しながら進む様子からは、この壮大な写真の数々が、いかに過酷な状況を克服した結果生まれたものかということが、よくわかる。
 天野さんの数々の写真を見ながら、あの「ネイチャーアクアリウム」の世界に通じるものを感じた。大きな自然の風景から感じたものを、水槽の中に再現しようとした結果が「ネイチャーアクアリウム」だったのではないか。勝手な想像だが、天野さんは冒険家ではないと思った。自分が見たい風景に出会うために、冒険を余儀なくされてしまうということなのではないか。そして天野さんの自然に向き合う時の眼差しは、壮大なものへのあこがれと、のどかなものへの懐かしさに満たされているように感じられる。人間が生きていくときになくてはならないものがここにはあると感じさせてくれる写真展だったと思う。まだまだ天野さんなら我々が普段目にすることのできない、自然の美しさを撮影して見せてくれることだろう。またの機会を期待してやまない。

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2007年9月11日 (火)

天野尚写真展に思う(二)

 天野さんのアクアリウムの魅力は、部屋の中に大自然が存在する楽しさだと思う。海や山はもちろん大自然に違いないが、葉っぱ一枚もまた大自然なのだと思う。
 天野さんの店に行くと巨大水槽にゴツゴツとした岩を持ち込み、山岳の岩肌を草木が取り囲んでいるような風景が作られていて、その壮観な様に圧倒されることがある。ところが、ふと目を転ずると、10センチ角のガラスの中にフサフサとしたヘアーグラスが育ち、ビーシュリンプが遊んでいる光景に、また、ハッと息をのんだりするのだ。それはまさに「春の小川」を覗く魅力に通じている。
 前にも書いたが、天野さんのアクアリウムは「日本庭園」の水中版といえる。それは、「日本庭園」が自然を象徴的に再現しようとする芸術だとすれば、まさに、天野さんは水槽の中に「日本庭園」を作っているということだ。ネイチャーアクアリウムの中で、「三尊岩組」という手法がよく使われるが、これは三つの岩を組み合わせる、日本庭園独特の用語だそうだ。そのような一つの芸術様式を自家薬籠中のものとしながら、天野さんは手のひらに収まるような水槽の中に、「春の小川」のひとコマを再現して見せたりする。
 水槽が小さければ、持ち運ぶことも出来て、管理も容易に思われるが、実はこれがもっとも難しいアクアリウムのように思う。水槽が大きければ水質は短時間で大きく変化することはない。しかし、1リットルもあるかないかのような極小の容器の中に水を満たし、水草を美しく育てていくということは、その水質の維持管理に相当高い技術と神経の細やかさがなければ不可能だ。まして、ただ水草が生長すればよいというものではなく、その姿形が風情を感じさせるものにならなければ意味がない。天野さんはそれをみごとに成功させてしまう。
 そんなところから思うに、天野さんはその野人のような風貌に似合わず、実に繊細な心をお持ちの方に違いない。いや、野人だからこそ心優しいということかもしれない。著書によれば、幼い頃は近所の沼地で魚を捕ったりして遊び回っていたそうだ。水の中を探るときには小さな生命の世界に目をこらし、顔を上げれば野や山が眼前に広がる。天野さんの心はそこから育ったのだと思う。今の日本の少年たちに、そんな心の育つ余地があるのだろうか。天野さんの活動への期待はそこにもある。

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2007年8月25日 (土)

天野尚写真展に思う(一)

 天野尚さんの写真展『「佐渡」海底から原始の森へ』に魅せられた。天野さんと言えば知る人ぞ知る「ネイチャーアクアリウム」の創始者だ。「ネイチャーアクアリウム」とは水草水槽の一流派とでも言えばいいだろうか。伝統的な「ダッチアクアリウム」に対して、天野さんが主張し、築き上げた水草水槽を言う。「ダッチアクアリウム」が言わば「西洋庭園」なら「ネイチャーアクアリウム」は「和風庭園」ということになる。
 歴史的に言うといわゆる「アクアリウム」(水草水槽)はオランダのライデン通りに住むお金持ちの、緑のない冬場でも緑を眺めたいという文明人らしい発想から生まれた。それはそれですばらしい眺めなのだが、どこか人工的な感じをぬぐえない。そこに天野さんは「大自然」の趣をぶち込んできたのだ。
 もう15年ほど前のことだが、そのころ水草水槽に凝り始めていた私は、天野さんの水草水槽を目にして、これこそ自分が求めていた世界だと感じた。そこで、かなりの遠方をものともせず、天野さんの店を訪ね、直にお目にかかり、数回にわたり「ネイチャーアクアリウム」のコツを伝授していただいた。
 また、天野さんがデザインされた道具類にも助けられた。その使い心地の良さは極めつけであった。例えば、ピンセットなどは水草の柔らかな根を傷つけることなく、微妙な指先の感覚そのままでつかむことができ、底砂にスッと植え付けることの出来る優れものだった。他のピンセットでは上手く植え付けられず、植えたばかりの水草がすぐに浮き上がってきたりして、とてもストレスが溜まるものだったが、天野さんの道具のおかげで、数倍のスピードで作業がはかどってくれた。一度使ったら二度と手放せない道具だった。他にも数々のオリジナルの道具類や装置があったが、どれも皆使い勝手がいいばかりでなく、とても美しいものだった。その美しさはすべての無駄を省いた末に生まれる本当にシンプルで自然な美しさであった。そうなったのもきっと、水槽の中の「小さな大自然に」上手くとけ込むようにという配慮からだったのではと思っている。
 天野さんの影響でアクアリウムの世界に骨の髄まで取り込まれてしまい、いつの間にか狭いアパートの部屋に3個の水槽と、1メートルほどの業務用二酸化炭素ボンベが据え付けられるまでになっていた。アクアリウムのデザインや維持の技能もそれなりに上達し、一つの水槽などは何がよかったのか不明ではあるが、完全にほったらかしにしても苔が全く発生しない、緑あふれる透明な水空間が持続されるようになっていた。これはちょっとその世界を体験した人には驚異的な成功と言えるものだ。
 結局私のアクアリウムは、転勤に伴う引っ越しや、田舎に家を持って庭を造ったことによって、終わりを告げた。もう一つの理由としては、ある時天野さんの店を訪れたら、店をたたんでしまわれていたことも大きかった。今でもどこまでも透明な水の中に、深山渓谷の緑だったり、さわやかな風が渡る草原の緑だったりが息づくアクアリウムの魅力を忘れたわけではないが、維持管理の難しさを考えると、庭を造っていく方にたまらない魅力を感じる。

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